苗育布の歴史 of 栗田煙草苗育布製造株式会社

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苗育布の歴史

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 当社のタバコ苗育布とは、明治28年当時、秦野(神奈川県中西部)で使われていた寒冷紗と養蚕網をヒントに改良を重ねた、タバコ栽培における霜害防止と発育促進に効果を発揮する織物です。
その当時から、研究開発を重ね独自商品を製造するという姿勢が当社にあることがわかります。現在では、それら苗育布の開発製造技術をベースに発展させ、農業分野以外にも様々な場所で使われる製品として成長しております。

寒冷紗とは、目の粗い織物のことで、畑の作物に対して遮光・防寒・防虫用などに使われています。黒と白のほか銀色などもあり、用途に応じて使い分けます。主に強光線を遮るために使われますが、防風、防寒にも利用可能です。目の粗さで遮光率が変わります。

当時の、タバコ苗育布開発についての詳細は、2代目社長の栗田渡がまとめた文章がありますので、そちらをご覧ください。

(引用ここから)

 タバコ苗育布の使用目的は、苗床のタバコ苗を霜害・虫害及び日光の直射より護り適温にして空気の流通も良く苗の発育を良好にするためである。
 大山田地方のタバコの始まりは地床に蒔いて育て、松の葉やコモなどを掩って育てたのが始まりで、明治二十八年頃。秦野で寒冷紗を使って居る事を知り、当時大田原で郡農会の技術員をしていた車耕民氏と父(佐市郎)と二人で視察に行き秦野附近の精農家を見学して帰って来て研究をして居た。
 後年になって、たまたま大田原上州屋・車耕民氏下宿先に、安蘇郡田沼町の金子吾一氏が養蚕網を売りに来て居合せての話しで車氏が其の養蚕網を見てヒントを得、此れをもっと細かく織れるかどうかと金子氏と話し合ったところ金子氏は筬さえ取替れば細かくも荒くも織れるとの事でした。ただし車氏には金の都合も付かないので父に相談をしに来たので父も研究をしていた時故、原糸を買い入れる資金を出して金子氏にたのみ、金子氏が早速、田沼に戻り織り始めたのが苗育布の始まりで、当時は二巾位しか広く織れず、約一ヶ月程かかって織上げて、馬頭に金子氏が持参して来たのを見てこれなら適品であると早速試験的にタバコの苗に掛けたのである。
 其れ迄は松の葉やコモで育てたので霜害などに逢い、思うような苗も出来なかったのが苗育布を掛けるようになってからは発育も良好でだんだん早期になって来て、後年になって上げ床にして堆肥を踏込み、その温度によって、成育をする様に切り替え苗育布を掛けると益々健苗が出来る様になった。
 金子氏に頼んで織上げた反物も相当あったので何人もの人を頼み、鳥山・茂木方面を売り歩いても当時は使い方も分らない時代で仲々売れず苦心に苦心を重ねた。車耕民氏の如きは資産をなくすほどの犠牲を払ったものである。
 当時、福島県田村郡あたりは沢山のタバコの栽培をしている話を聞いて田村郡に金子吾一氏と二人で宗像先生を訪ね相談をした。
 宗像先生は農業方面の第一人者で殊に、タバコに対しては熱心に研究を重ね、「苗育布は年々取替えても損はない、新しい程苗の発育が良い」と指導をした程で、年々使う様になって来た。一方金子氏も養蚕網より苗育布の製造に切り替え、全国各地を普及して歩き、苗育布の普及に努力した人で車耕民氏と共にその業績は大である。
 車耕民氏が考え、金子吾一氏が絞り、父が資金を出して、三人の力が合わさって苗育布が出来たのである。父はその後、昭和12年10月、馬頭町より安蘇郡堀米町に小さな工場を建て、苗育布の製造を始め自分が経営に当ったがそれ迄は農家の農閑期を利用して原糸を買い足踏み織機にて季節的に織って販売をして居ったものですが、一年増しに需要も多くなるにつれて機械も増設した。
 昭和18年3月、応召。北支に出征一時営業中止となったが昭和21年復員、再び製造に取りかかり新しい工場を現住所に建築して移し、昭和23年12月栗田煙草苗育布製造株式会社を設立、代表取締役として経営にあたっているものです。
 以上が苗育布の出来始まりで約六十有余年の歴史を造って来た次第です。
 戦前の苗育布は規格に多種多様なものがあったが、戦時中統制され四種類になった。殊に用途により両耳の強力を増す為、力糸を使用して太陽光線の紫外線を良く通過せしめ苗の発育を良好にするため隅糸を使って製織されている。又、取扱上便利の様に織込式にして取れない様製織されて居ります。

(引用ここまで)


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